セラピストは誰かを騙す

こんにちわ、sumaです。


ゴールデンウィークにちょっと過激なタイトル。


これは比喩ですので、気軽に受け止めてください。


これは、我々セラピストにとっての事実の捉え方についての啓蒙です。



さあ、話は哲学から始まります。




哲学では、真理とは何か?を常に探求し続けてきました。


真理とは、誰から見ても正しいと言えることです。


しかし、真理とは何か、という命題を解いた人は未だいません。


逆説的に言えば、誰から見ても正しいと言えることなんてものは、ほとんどないと言うことです。


そうなんです。

誰から見ても正しいものなんてない。


でも、そしたら人間はどこに向かって歩いたらいいのか、わからなくなります。


そこで、出てきたのはプラグマティズム。


プラグマティズムでは、真理の定義を変えています。


ここでは、真理を、すべての人からみて正しいこととするのではなく、

ある人にとって、その人に役立つ知識を「真」としている。


つまり、人や見方によって真か偽か変化しうることを示したわけです。


そして、これらを実証することが現在の科学へと繋がっています。



さて、話を戻しましょう。



タイトルに示したように、セラピストは誰かを騙している恐れがあります。



それは詐欺なのか?


いえ、違います。そんなことを言いたいわけじゃありません。


重要なのは、「真」を捉えることの難しさをきちんと理解しているかどうかです。



例えば、僕らセラピストは、学生指導を行うことがあります。


学生指導の際、ROMやMMT、移乗方法やカルテの見方など様々なことを教えます。


ここで伝達できることは全てではありません。


しかし、学生はその全てを「真」のように捉えることが少なくない。


ここで、我々セラピストは学生を騙しているのです。


もっともらしい事実は、さらに「真」を歪めます。


例えば、関節可動域の制限がある人に、徒手療法による介入を行った後、関節可動域の改善を認めたとします。



学生や後輩、患者本人は驚き、その徒手療法を「真」とし、それを行ったセラピストを「真」とします。


徒手療法による介入効果は、おそらく「真」と捉えても差し支えないでしょう。


それは自然経過(何もしない)よりは、介入したことの効果が認められるというものです。


しかし、その方法は徒手療法以外でも同様である可能性は捨て切れません。


例えば、温熱療法と自主訓練を用いた場合や、


自主訓練も適切な方法を指導すれば、同様の効果が得られたかもしれない。


それは厳密には、わからないのです。



また、セラピストを「真」とするには、いささか誤解があります。


もちろん、徒手療法を行ったセラピストは、患者にとって役立ったわけですから「真」と捉えられますが、

セラピスト間の比較はできないので、これも分かりません。


分からないことばかりじゃないかと思いますが、


そうなんです。


分からないことばかりなんですよ!!



なのに、もっともらしく言って、俺の言うことは正しいと言うセラピストがいたら、疑ってください。



そんなの科学的にも哲学的にも説明不可能です。


セラピストから科学と哲学を失ったら、何が残りますか?


というわけで、僕らセラピストは正しいことを説明している気になって、事実を真のように扱ってはなりません。


僕らセラピストが言えるのは、

現象を正確に共有すること。(やる前とやった後の違い)


多様な方法論の提示と協力(徒手療法以外の選択肢と試行を支援する)



ということです。



なぜなら、変わったことは事実だとしても、介入方法や組織の変化などとの因果関係は証明できないからです。


そして、ここからは科学の話。



なぜ研究が必要か?


文献を読む必要があるのか?



ということです。



臨床を一生懸命やりながら、研究や文献検索をすることは容易ではありません。


そして、研究している人を、「物好き」や「特別」、「時間がある人」などの括りで見ることがあるかと思います。



でも、先ほど説明したように、目の前の事実だけでは、ほとんど何も説明できません。



しかし、僕らセラピストは、関節可動域の改善させる方法を知っています。


どうしたら良くなるのか、分かっています。


それは平たく言えば、教科書の存在。



それは長年にわたり積み重ねられたデータに基づいて、適切な解析された論文の存在です。



その上に、僕らは立っていることを忘れてはなりません。


それらの情報や知見がなければ、僕らセラピストの思考は停止しますし、勘だけで出来るほど患者さんたちの身体は甘くない。


もし勘で出来るとしたら、よほど運がいいか、その勘が先人たちのデータに基づいていることに気づいていないか、のどちらかだと思います。



つまり、科学の存在は、われわれの道しるべです。



話をまとめると、


哲学はもっともらしい前提を疑い、真に正しいものなんてないことを示します。



科学は積み重ねられたデータから、もっともらしい結論を導き出します。



この両者を交互に考え抜くことが、僕らセラピストにとって重要な思考と行動であると考えます。



長文をお読みいただき、ありがとうございました。



suma's  occupation

suma's Occupationー作業療法を楽しむためにー

日々積み重なる作業、そして繰り返される日常 その作業-Occupation-にどんな意味があるのか、僕達に何をもたらすのか 僕は作業療法士のsuma 僕が考える作業-Occupation-について、書き綴ります

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