もう、作業療法の核は問わない
こんばんは、sumaです。
少し過激なタイトルになります。
作業療法は50年前に日本に輸入され、幾度も作業療法のアイデンティティを見失いました。
始めは、作業そのものをすることが大切であったのですが、
医学の発展に伴い、数値化できる根拠を求められました。
作業療法は、数値化できるものが少なく、良さそうだが根拠の乏しいものとして、医学界で危機を迎えます。
しかし、作業を治療的に使う方法がいくつも編み出され、何もないよりも物品を使った方が有効な場合があることを示しました。
次に生じたのは、PTとの違いです。
医学的に説明がつく方法に偏った結果、PTとの違いが不明瞭になり、OTのアイデンティティを見失いました。
そこで出現したのは、キールホフナーの人間作業モデルやカナダ作業遂行モデルなどのクライエント中心の作業療法です。
作業療法は、クライエント中心であり、クライエントの主観的価値観を支援する仕事であることを示したのです。
しかし、作業を治療的に使う方法が有用であると信じていたOTと、
作業は目標とすべきだと考えたクライエント中心のOTが対立してしまうのです。
そして、これは今でも日本のどこかで起こっています。
作業療法の核をめぐって50年、
様々な議論が交わされてきました。
それでは今、同じ議論は必要でしょうか?
まだ答えが出てないのなら、議論の余地はあるでしょう。
自分の中に、答えがない方が大多数かもしれません。
でも、僕は作業療法の核を問うのはやめました。
それはなぜか?
単純です。
これは問題の立て方が間違っていたからです。
作業療法の核を問うていたのに、
議論されるのは、作業療法技術のことばかりでした。
作業療法の技術は、核ではありません。
もし、とある技術を取り上げて、筋トレは作業療法か、ADL訓練は作業療法か、という議論をするとしたら、
その状況と目的に応じていれば、それはどちらも作業療法と言えます。
では、技術でないのなら、何なのか?
作業療法の根拠を問いただされ、危機を迎えた時代もありました。
技術の確かさを示すには、根拠が必要です。
それが科学です。
しかし、技術と科学が備わったとしても、足りないものを感じませんか?
生活に関する技術は、他の職種でも残念ながら出来てしまいます。
生活に関する科学的根拠は、医師やPTの方が持っているかもかもしれません。
そこで必要なのは、OTの哲学です。
もう、作業療法の核は問いません。
作業療法の哲学について、勉強し直しましょう。
作業療法は、作業療法であるために考え抜かれてきました。
今、もし作業療法の核が分からないのだとしたら、
作業療法の哲学を忘れているのです。
初心にかえって、もう一度読み倒そう。
それでは。
suma's occupation
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